地域に根ざした作品、活動、しくみを生み出すアートプロジェクトの実験 「まちが劇場準備中」
レポート:オープンミーティング02/午前の部 『歴史の勉強会』
- 2008/08/18
- category: 事務局レポート
今回のオープンミーティングでは、午前と午後の部に分け、都市社会学者の山田創平さんと美術家の小山田徹さんをゲストに迎え、西成・新世界地域の歴史の勉強会と散歩を行いました。新しい視点でまちを見つめ直すことで、今までに出てきたアイデアにイメージを重ねることができればと思います。
山田さんは「過去を無視して地域は成り立たない」と、大阪をはじめとした都市の歴史について深く研究されている方です。今回は、西成・新世界地域に焦点を絞りお話をしていただきました。(写真1)
歴史はさかのぼり、5〜6世紀ごろ、四天王寺が建立され、難波宮(なにわのみや)が造営された時代から、現在に至るまでに辿ってきたこの地域の歴史を、古い地図や文献等の資料とともにとても分かりやすく話していただきました。
この地域の特徴は、6世紀あたりから連綿と続く「寛容さ」であると山田さんは言います。四天王寺西門には、社会的に立場の弱い人達が集まる福祉施設的なものが、その時代にすでに存在していたとのこと。時代が進むと、その人達が組織をつくり、今で言う警備会社のような役割を果たし、社会的な地位は低いが経済面では相当に豊かな暮らしをする人々も現れたようです。
そして、この地域にも近代化の波が押し寄せ、1903年(明治36年)には第5回内国勧業博覧会が開催され、その跡地に1912年にルナパーク(遊園地)がオープン。この時に、新世界、通天閣が誕生しました。毎日がお祭りのような華やかなまちに、当時の富裕層も引っ越してきたとのことです。住友茶臼山本邸とともに造られた庭園、慶沢園は現在も天王寺公園内に残っています。
しかしこの近代化は束の間のものでした。この場所が長い時間をかけて培ってきた多様な人々を包摂する伝統は、近代的で画一的な都市計画の中で一時失われるかに思われました。しかし5世紀以来、長く続いてきたこの場所の性質は逃れがたいものだったのでしょう。間もなく、この場所には社会的に立場の弱い人達が回帰し、多様な人々が同居する昔の街の様子へと戻っていきます。その流れを新世界、ジャンジャン横丁(南陽通商店街)、飛田新地、釜ヶ崎といった場所が引き受けてゆくのです。
このまちの「寛容さ」とは全ての人を受け入れる寛容さであり、それは、あらゆる階層の共存を生み出す「多様性の場所」を意味します。この多様性を無視してこのまちを語る事は出来ないだろうということでした。
勉強会の後、西成の住民の方にこの地域の現状についてお話していただきました。(写真2)
西成区は少子高齢化が進み、日本が10年後に到達すると言われている25%(4人に1人が高齢者)にすでに達しており、山王町に至っては、30%とも言われているようです。
まちの寛容性は現在も存在するのですが、イメージが良くないことで住居地とし選択されず、若い人や子育て世代が入ってこないというマイナスのスパイラルが原因のようです。
しかし、交通の利便性に優れ、「住・遊・食」を兼ね備えた場所であることから、住居地として選択されなくとも、「遊・食」の感覚でこのまちを知り、将来的には移り住んでくるようなまちになっていけたらと考えられているようです。
高齢化に伴い、内部的な力は限界に達しているので、外からの関わりに期待をしているとのことでした。
マイナス、負のイメージで語られることの多い地域ですが、この地域だからこそ必要な活動が生まれ、独特の文化を醸成し得るキッカケともなっていることが分かりました。
山田さんのお話で何度も出てきた「多様性」という言葉。アートにとって「多様性」は不可欠なものであり、私たちがこのまちに魅かれる理由はこの「多様性」にあるのかもしれません。
※藤さんのブログでもレポートがアップされています
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